内定者の声

共同通信内定 T.S

「棚から牡丹餅」という言葉がある。努力することなしに予期しない幸運が舞い込んでくるという意味だ。私の場合まさにそれで、また棚が多いこともあり幾つかの牡丹餅が落ちてきた。しかしうまいこと手にしたものはそのうちの1つ、他は床に落ちて駄目になった。

この駄文から読み取って欲しいこと、それは「棚を増やす」こと、そして「牡丹餅を上手にキャッチする」ことの大切さだ。「棚を増やす」というのは単に受験企業数を増やすというのではなく、常日頃からあらゆる事物に関わって行くこと。その中で知識や人との繋がりを増やしていくことはもちろん、“何が何でも今を楽しむ!”という前向きの勢いを帯びれば、落ちてくる牡丹餅の数も自ずと増えるだろう。「笑う角には福来る」ではないが、最終面接で出てくる年を召された方々は“何かやってくれそう!”という勢いに釣られて来る。「牡丹餅を上手にキャッチする」とは相手が何を求めているかを瞬時に把握し、それに合わせるということ。会社によって好まれる人間像を演出することはもちろん、そのばその場の面接での面接官の様子に合わせた面接の流れを作る必要がある。

牡丹餅とは「うるち米ともち米を混ぜて炊き、米粒が残る程度について小ぶりの俵状にまるめ、餡をまぶした食べ物」だ。内定に置き換えれば、「体験的知識とコミュ力が渾然一体となり、体験的知識が仄かに滲み出る程度にして謙虚さで丸め、元気と明るさで仕上げた人」だ。爽やかさとは無縁の小生であるが、一応内定が出たのでそういうことになっている。少なくとも面接時には前記の演出を心掛けた。不謹慎な言い方だが、目の前の一人騙せずしてどう情報戦を戦い抜くのかということだ。ただ、マニュアルや小手先の演出ではなく、深みのある本物の演出力を、塾を通して学んで欲しい。中身は付いてくる。牡丹餅もいつか、きっといつか食べられる。

読売新聞内定 D.K

自分には社交性などないものだと思っていた。持って生まれた性格でどうにもならないものだと半ばあきらめていた。高田先生が常におっしゃっている「仲のよい友人数人と自分の興味の範疇でしか生きていない。」そんな若者の典型だった。


「新聞記者になりたい」夢だけは一人前だった。ない頭を振り絞って書いた作文は毎回、塾仲間や高田先生から徹底的に添削され返って来た。合宿などの模擬面接では中途半端な志望動機や自己PRを情け容赦なく突っ込まれた。「なぜ新聞記者になりたいのか」何度も自問自答を繰り返した。


後先考えず突き抜けた数ヶ月を今、振り返ってみると私が高田先生から学んだことは数え上げればきりがない。作文や面接のテクニックはもちろんだが、ひとつ挙げるとすれば間違いなくsocial skillと言える。社交性という言葉を和英辞典で調べてみると“social skill”とある。日本語でいう性格ではなくskill、つまり訓練によって身につく技術なのだ。それに気付かせてくれたのが高田先生であり、高田塾はいわば訓練所だった。


受け身のままでは何も変わらないし、身につかない。ただ本気で変わろうとする人間には高田先生は本気でぶつかってきてくれる。そんな訓練所で同じ夢を持った仲間たちと切磋琢磨し自分自身を成長させることが出来た。大学というぬるま湯にどっぷりと浸かった私にとって高田塾は本当に刺激的な場所だった。


 もし、高田先生に出会っていなかったら今の私はなかっただろうと断言できる。初めてお会いし怒られた日、尻込みせず高田塾に入って本当によかったと思う。

東奥日報社内定 S.N

卒業を間近に控えた2月の終わり。御茶ノ水の高田塾の門を叩いた。3つのテーブルにびっしりと埋まった若者たち。奥では、持ち寄った問題を出し合う時事問題の勉強会が開かれていた。1時間後、塾生たちの書いた作文を読んで愕然とした。例えて言うなら、無謀にもセリエAに単身乗り込んだはいいものの、周りのレベルの高さを思い知った瞬間だった。


 大学3年の秋。教職課程に所属しながら、就活一本に絞って頑張ろうと決めた。そして半年後。すがる思いでESを出し、トントン拍子で最終面接を受けた教科書出版も不採用。マスコミって、どんなヤツが受かるんだろう。どんな力が必要なんだろう。


 9月。3ヶ月ぶりに就活を再開し、ベンチャー広告会社をふらっと受け、わけも分からず内定を頂いた。
 そして年が明け、なんとなく参加した新聞社の会社説明会で、若手社員の話した一言。
『時間はかかったし、キツイ仕事ですが、毎日が楽しいです。』
目を輝かせて話すその人の顔を見て、私の決意も固まった。
内定、断ろう。もう何の迷いも無かった。
高田塾では、どんな人が?と思っていたような会社に、4月半ばからどんどん内定していく。そういう塾仲間の就活話を聞き、モチベーションも上がり、充実した毎日を過ごすことが出来た。


 スポーツ紙の最終では残念な結果に終わったものの、役員面接の朝、忙しい合間を縫って高田先生に時間を作っていただき、指導を受けた30分が私を大きく変えてくれた。
 そして、最終へと進めたことでどのレベルの人間が内定を勝ち取るのかという基準を実感できた。落ち込んでいる暇などなかった。


 高田先生、そして塾生の友人たちがいたからこそ、今の私がある。将来への道がある。
ただ、言い尽くせないほどの感謝の念を抱くばかりである。

朝日新聞社・NHK同時内定 K.N

「本日は、丸一日、僕らにつきあってくださり、ありがとうございました!!お疲れ様でした!!」
朝日新聞(秋採用)の2次試験が終わった瞬間だった。朝日の2次試験は丸一日だ。午前はグループディスカッション、昼食も記者である試験官3人と食べ、模擬取材、そして個人面接と続く。個人面接は僕が最後だった。彼らに、受験者全員の感謝の気持ちを込めて「お疲れ様でした!!」と声を張り上げた。
「すばらしいですねぇ」ブースを出るときに、そう聞こえた気がした。確かに自信はあった。グループディスカッション、昼食時の雑談、模擬取材。グループで一番とは思わない。
 その年の春、朝日新聞だけを受けた。エントリーシートには「朝日以外新聞と認めない」。そんな言葉まで書いていた。自信のあった2次試験で、ばっさりと落とされた。高田塾には顔を出したが、行けば行くほど、記者という職業への自分の適性を疑った。


6月末から大手の一般企業を複数、受けた。ここで2つのことを知る。ひとつは、自分よりはるかに優秀な人がたくさんいて、一般企業といえども受かることができないということ。もうひとつが、一般企業では第一志望だったXX社の面接で自分の学生生活や家庭環境(苦学)を振り返ることができたことだ。この2つのことは、「謙虚さ」と「辛かった人生を見つめなおす(苦学)」、という自分にかけていたものを僕に教えた。それを補強したのは、間違いなく高田塾だった。


その頃から高田先生のアドバイスが僕に少しは届くようになってきたのだと思う。合宿ではフジテレビの岩下さんが、確信を持って僕を評価してくれた。それでも、性格というのはそう簡単には変わらない。
僕は、高田塾に通い続けた。うまく説明できないが、直感的に高田先生を信頼しているのだ。朝日新聞のエントリーシートは、提出の3日前、NHKで書いたものを転用しFAXで送り、夕方、塾で先生の講評を聞いた。
「お前は記者に向いていると思うのか」「秋はもうダメだ。また春がんばろう」徹底して30分批判された。その日は塾にも参加せずに、帰った。やる気がなくなった。夜になって、本当はあきらめるつもりはなかったが「自分が記者への適性がないことがよくわかりました」と記者をあきらめるかのようなメールを高田先生に送った。「いや適性あります。体験が消化しきれていないだけです」。相変わらず返信が早い。ドキドキ待つ時間を僕に与えなかった。


エントリーシート提出期限は残り2日。やる気がでない。見えない場所に置いた。翌日。まだやる気はない。夜9時ぐらいだろうか。そろそろ始めないと本当にやばい。全面的に書き直し始めた。とまらず一気に書いた。気づいたら朝になっていた。9時ごろ着替えることもなく、家を出て、新橋の郵便局に持っていった。
夕方、塾へ行った。提出した朝日のエントリーシートのコピーを渡す。何を言われるのだろう。気が気でない。
「きみはやっぱすごいわ!」塾のなかに高田先生の声が響く。そんなにうならなくても・・・。恥ずかしいじゃないか。この言葉は最終面接まで僕の自信になってこだました。


もうひとつ、最終面接まで何度も思い出した言葉がある。「君は2次3次までは行くが、最終で落ちる」。何の根拠で言っているのだろう。あの確信を持った目で、先生は言い切る。普通に傷つく。それを言われたのは7月頃。この人のせいで僕は記者になることをあきらめるのではないかとさえ思った。
だが、この言葉が2次3次と進んでいくと重みを持った。どんなに面接が進んでも、誰に褒められても、僕がおごることを最後まで許さなかったのが、高田先生の言葉だった。


最終面接が近くとなると高田先生に必ず連絡をとった。第一志望の朝日の最終面接の前は、NHKの最終面接と重なり、時間が限られていたが、会いに行った。会いたいと思った。会ってくれた。
僕は思う。高田塾がなければ内定できなかった。なんて、思わない。僕に限って思ったとして言うはずがない。マスコミ塾に通わず内定する人間は山のようにいる。


だが、高田塾があったからこそ、より良い内定ができたと思う。人間として、記者として生きていくうえで、大切なことを学んだと思う。それが何かと言われれば、「人間力」というやつなんだろう。その意味がなんとなくでも分かるようになった頃、これを読んでいる君は内定できると思う。そして内定後は、いまの僕のように、よい記者になるめたに「人間力」を高めて行こうと思えるはずだ。なぜなら、この就職活動で出会った素晴らしいY新聞の国際記者が言うように、「記者の仕事、最後は人間性」なのだ。人々は、新聞の名前ではなく、その記者の人間性を信頼し何かを語ってくれる。人間性があるから、埋もれている事実に気づくことができる。その人間性を力と見た言葉が、高田先生の言う「人間力」なのだと思う。


さあ、これからだ。人間と向きあおう。僕も、きみも人間力を磨いていこう。

関西テレビ内定 T.S

「私、大阪に来たのが今日で4回目です。新しい場所を知りたいと思い、ここに来るまで41人の関西人とお話をしてきました。」
関西テレビの最終面接で、出馬社長(現、会長)ら役員6名にそう話した。
「それで、関西人はどうですか?」と社長。
「どうやってそんなにたくさんの人と話すことができたのですか?」と専務。
「時間はどれくらいかかりましたか?」と取締役。
この話題にもってこれれば、あとの答えは簡単だった。つい2日前からの印象的な出来事を話せば良いだけだ。酒好きを説明し、安い居酒屋をハシゴして情報収集に尽くしていたと言った。とりわけ、
「東京が人間でいう頭脳だとすれば、大阪はあらゆる意味で心です。」
というのがウケた。次に必ず聞かれた。
「どういうことですか?」
ここでまた、珍道中の話をする。今度はできるだけ面白いエピソードを選んだ。冗談好きの専務には
「心があっても頭は空っぽですなぁ。」
と言ってもらい、会場がドッと笑った。


 言うまでもなく、住んだことも行ったこともない場所で最終面接に望むことはリスクが高かった。「41人に話しかけた」という戦略は、高田塾の先輩が北海道新聞でやったという話を聞きつけ実行しただけだった。高田塾では、さまざまなアイデアを学び、盗むことができる。私の場合は最終だけでなく、二次面接、三次面接でも行った。それぞれ21人、39人と徐々に人数を増やしていった。人事の方が毎回増える情報を面白がってくれた。
 私にとっての就職活動は、どこまでやったら失敗するかを実験する場だった。どこまで自分を出したら失敗するかという考えに近いかもしれない。決してウソはつかなかった。


 相手を尊重し、楽しませながら素のままで話し合った。そして、普段から「就活モードに入らない」ことを何よりも意識した。就活中でも興味をもったことは結果を考えずにどんどんやってみた。普段はなかなか話せない人と接するチャンスが会ったら、いつでも飛び込んだ。翌日に面接があっても好奇心を損なうことは決してしなかった。


 それを教えてくれたのが高田塾であり、高田先生だった。就活は「受験」ではなく、自分を高め、認めさせていく道程だと思う。

テレビシオン内定 S.Y

「最初は夢でも、誰でも必ずマスコミ人になれます!」高田先生のこの一言で、自分にも出来るんじゃないかと自信がつきました。


何かを作り出すことが好きだった私は、大学3年の春ぐらいにテレビの制作部門に就職したいと思っていました。そこで、高田先生がプロデューサーを務めている学生放送プロダクションYoung-Waveに所属しました。企画から収録、放送まで学生で行うこの生活で、自分の夢への思いがさらに大きくなりました。
先生の語録で「無駄をする人間になれ」というものがあります。形にはまった生活や、決められた事しか出来ない人は得しないということです。そこで、野宿で過ごした日本一周一人旅や、アルバイトを通じた体験などのネタを引っさげて、秋の就職活動にぶつかっていきました。


大学3年の秋に行われるキー局の採用には、エントリーシートがなんとか通りましたが、面接で落ちるというパターンばかりでした。あまりの現実の厳しさにショックを受けました。しかし、ここで折れて一般企業に志望を変更しても自分の性格からして絶対後悔すると確信したので就職浪人する覚悟で就職活動を再開しました。
そんな就職活動で悩んでいた時は、塾の講義やYoung-Waveの活動後の飲みの席で、高田先生が言われた言葉に励まされ、糧にしました。すると、今まで通らなかった面接がどんどん進むようになり、内定することが出来ました。


初めは、夢は夢で終わるんだと勘違いしていましたが、何度落ちても自分のやりたいことを諦めず、そしてなによりも信頼できる先生を見つけられたことが私の内定に秘訣だったと思います。
新しい就活生の皆さんは自分の進むべき道を絶対に諦めないで下さい。必ず希望は叶います。

日本テレビAXON内定 M.N

 「テレビの現場でニュースに携わりたい」この思いを貫き通すことができたのは、高田先生との出会いがあったからだ。2006年10月6日大学3年生の時、高田塾に入塾した。
 NHKの1次面接の日、決意を後押しする事件が起きた。午後9時半。新宿駅発高尾山口行きの700人を乗せた電車7014号が東京都世田谷区松原1丁目の京王線代田橋―明大前間の6号踏み切りで、乗用車と正面衝突した。1両目が脱線し、衝突によって車は大破した。運転していた21歳の女性が亡くなった。私は、この電車に乗車していた。


外は報道記者やカメラマン、近所の住民、救急車などで溢れていた。
「乗車していた方いらっしゃいませんか」
NHKの社会部の記者、上田真理子さんが叫んでいた。
「私乗車していました」
「話を聞かせてもらってもいい」
「はい」


カメラが回り、スポットライトが向けられた。3分ほど事故が起きた時の車内状況や今の心境を話した。
 その後明大前駅まで歩き、井の頭線で吉祥寺駅まで行き、タクシーを使い、家があるつつじヶ丘まで帰った。そして午前0時過ぎ、そのタクシーの中で、NHKラジオから流れる自分の声を確認した。
 報道の現場を初めて肌で感じた瞬間だった。その時、必ず報道の仕事に携わりたいそう思った。
 そして、今、テレビ報道の入口に立つことができた。就職活動を通して最高のコーチ、高田先生と高田塾の仲間に出会えたこと、そして本気で将来について語り合い、必死に作文用紙と睨めっこしたあの時間を一生忘れない。

NHKアナウンサー内定 A.N

就職活動は悩みの連続だった。「自分は将来何をやりたいのか?」「どんな仕事が本当に向いているのか?」これらの根本的な問題を、内定が決まる4月までずっと抱えていた。
大学2年次にマスコミに興味を持ち、将来は報道記者になりたいと思っていた。難関の記者職を受けるにはその基本である「作文力」を鍛えなければと思い、1月に高田塾の門を叩いた。しかし、いざ作文の練習をしてみると、1時間で800字を書き終えることができない。自分の体験・考えを短時間でまとめ、分かり易く書き表すことがいかに難しいことか。「ああ、俺には文章を書くのは向いていないのかも。」作文を書くたびに落ち込んだ。文章力を磨くはずの高田塾で、自分の文章力のなさを思い知った。


その内、「書くこと」よりは「話すこと」のほうが、自分の表現手段として長けているのではないかと思い始めた。私は中学・高校で生徒会長や部活の部長を経験し、自分の気持ちや考えを「話すこと」によって人に伝える機会が多かった。大学の授業でも人前で話すプレゼンテーションのほうが、自分の気持ちをより訴えることができた。


面接では、志望動機よりも「どんな学生時代を送ってきたのか」「これまで挫折したこと」など、受験者のこれまでの人生を探ろうとする質問が多かった。私の場合、箱根駅伝を目指して大学に進学したにもかかわらず、大学1年次に部活を辞めてしまったことに質問が集中した。豪州留学やカンボジアでのボランティア活動など、アピールポイントにするつもりだった経験については、さほど質問を受けなかった。
マスコミはもちろん一般企業でも、面接では「これまで自分がどういう考えで行動し、どんなことを感じてきたのか」を、自分の言葉で素直に表現することが求められていると感じた。面接は、自分を宣伝する「自己PR」の場ではなく、ありのままの自分を見せる「自己紹介」の場だと思った。自分を大きく見せないことが大切だと実感した。


就職活動は、決して一人で乗り越えられたわけではなかった。多くの人に何度も助けてもらった。ESを書くたびに、高田先生や大学のキャリアアドバイザー、大学の友人など、できる限り多くの人に読んでもらい、それぞれの視点からアドバイスをもらった。NHKのESは、FAXで福島の両親にも送り、意見をもらった。
就職活動全般を通して最も学んだことは、「人脈」を築く大切さ。人との小さな出会い・つながりが、自分を成長させてくれるきっかけにつながることを実感した。例えば、福島にいる中学時代の友人の母親から、読売新聞の記者やNHKのアナウンサーを紹介してもらった。高田塾では、ES提出に追われて忙しい時期に「30分でもいいから顔を出してみないか」と先生に誘われ、ニッポン放送の岩下アナウンサー(現・フジテレビ)とお会いすることができた。その晩は帰宅してから徹夜でESを書くことになったが、会うことによっていろいろなアドバイスを聞くことができた。「付き合いを大切に」という高田先生の言葉の意味を、就職活動が進むにつれて理解できた。また、そのような人脈作りに欠かせない、挨拶や礼儀、「ホウレンソウ」(報告・連絡・相談)といった社会人としての基本も、高田先生から教わった。高田塾では、作文技術を学べたことはもちろんだが、それよりも「社会人になるための基礎」を身につけられたことが一番の収穫だった。

凸版印刷内定 Y.Y

 4月11日、凸版印刷から内々定の電話をいただいた。臨んだ最終は圧迫面接。これが噂の・・・。働きたい、という確固たる意思を信じてもらえたようだった。
「やらないで後悔するよりやって後悔するほうがいい」のモットーのもと一心不乱に取り組んだ。高田塾に入ったのは12月。すでにアナウンサー試験は始まっていて、マスコミ志望者としては出足が遅かった。「マスコミって面白そう。でも自分には無理だろう・・。」そう思ってなかなか一歩踏み出す勇気がなかった。躊躇せず、もっと早くに入ればよかったと思う。
塾に入って最も良かったと思うのは、一緒に頑張る仲間ができたこと。就職活動に関する悩みを聞いてもらうことで、精神的に楽になったし、頑張ろうという勇気が湧いた。ライバルだけど他の受験生とは違う。お互い励まし合い、切磋琢磨できる環境が好きだった。
毎回の塾では先生の貴重なお話を聞くことができた。一番印象に残っているのは「向き不向きではなく前向き。やりたいことがあるだけ。」という言葉だ。
無駄することを厭わず、行動すれば、少なくとも後悔しない結果がついてくると思う。

電通内定 N.N

塾の仲間たちと、時間を忘れて議論した。酔いに任せて大風呂敷を広げてみたものの、包むものを持たぬ自分を
指摘され、涙を流した夜もある。
塾では、現実を直視する事の尊さと、それを笑ってうけとめる強さの必要性を学ばせていただいた。
もっと強く、たくましくなりたい。これが今の私の願いである

朝日新聞社内定 K.H

ダイナマイトは「雷管」という発火装置が起爆剤となって爆発する。私にとっての塾はまさにその「雷管」ではなかったろうか。記者になりたいという希望を、単なる悶々とした思いに終わらせず、現実的な方向に着火させ、導いてくれたのがこの塾だった。
内定をもらった事で、第1回の爆発を終えたとしよう。だがこれからも、塾長をはじめ、諸先輩方の指導を仰ぎ、一緒に学んできた塾の仲間が互いに発火装置となれるよう、自分を磨き続けていきたいと思う。

講談社内定 I.E

入塾当初から、私みたいに文章下手は毎回必ず塾に来て作文を書き、最後の句点を打ち続けることだと思っていた。
仲間同士、けなし、けなされ、という日々が続いた。
塾の素晴らしいところは、作文に関してだけではない。塾長、OB諸氏をはじめ、魅力的なゲストや仲間たちと触れ
合うことができる。塾は、私の本当の大学であった。

NHK内定 Y.H

塾に駆け込み、とにかく毎回足を運んで数ヶ月、私の運命は大きく変わった。よく勉強した、とは言えないが、塾長に伺った様々なお話、多くの先輩たち、友人たちとの出会いは、いわゆる"勉強"以上のもの与えてくれたとつくづく感じる。
これから入社すれば、また私の運命は大きく変わっていく事になるだろう。しかしその変化の中で、塾で学んだ事の多くは一生変わらないものとして持ち続けていきたいと思う。